「福耳コラム – 矛盾の止揚の教育」 から。

“学生に、Aという仮説を教える。そして然る後に、Aと矛盾する仮説Bを提示する。そして教えるこちらからはAB間の矛盾は解決しない。学生自身に矛盾について悩ませる。

その結果、そうとうちゃんと考えてこそ、ABそれぞれをふまえて、両者を止揚した仮説Cに学生自身の手でたどりつく。それをしてこそ、本当に自分の頭で考えて、自分の頭の中にその成果が残り、洞察力という力の存在を認識できる。

そういう講義をせんとあかん、と思ったのは、いまの学生、「決まった正解を教わるのが大学の講義」と勘違いしているからである。あーこどもっぽくっていや。そんなの、チャート式でも読んどいてくれ。

僕なんぞは、考え方ではなくって、他人が勝手に決めた正解を学んで、なにが面白いのかなんて思いますがねえ。”

福耳コラム – 矛盾の止揚の教育

うぅむ。
Clearはそうは思いません。
決まった答えが有ろうとも、何故そこにたどり着いたのかという「過程」に着目させたいときもあるのではないでしょうか。
どんなに難しい数学の問題でも、その計算過程を掘り下げていけば、小学一年の時にやった足し算にたどり着きます。
文科省が言う、「生きる力」というものに、それは大きく定義されていると言えます。

そして、大学は知識を学ぶ場所だと思います。もっといえば、「決まった正解を教えるのが大学の講義」だと思います。
その決まった正解というのが、教授者の持つ知識にゆだねられているわけですが、教授者の知識を広く学ぶ場が大学じゃないかな、と。
小学校と区別して考えて述べていきたいと思います。

まずは、生きる力の定義から見てみます。

“生きる力(いきるちから)とは、全人的な資質や能力のことを指す用語であり、具体的には、「変化の激しいこれからの社会を」生きる力のことである。

1996年に文部省(現在の文部科学省)の中央教育審議会(中教審)が「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」という諮問に対する第1次答申の中で、

我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。”

生きる力 – Wikipedia

この大きな枠組みの中で現在の教育活動は定義されているのではないでしょうか。
よって、知識偏重だった昨今の教育を見直す活動はこの生きる力の定義からスタートしています。

矛盾する仮定Aと仮定Bの存在から、「あっ、矛盾があるな」と気づく力。
その矛盾を解決しようとすること、そして社会的、一般的に合っている合っていないに関わらず、自分なりに結果が出せたかどうか。

ここから教育活動はスタートしていくのではないでしょうか。
知識の獲得はもちろん大事で、知識の獲得が行われているか否かによって、その人の行動が決定されてしまうのは言うまでもない事実です。

しかしながら、その知識の獲得を行おうとする意欲があるかどうか、意欲をもてるかどうか、ここに関しては小学校・中学校での教育活動がどのように行われていたかによって変わってくるのではないでしょうか。

だから、大学で教わることと、小中で教わることを一緒に考えてはいけません。
大学で教わることは、専門的なものであって、「知識をつけたい」と思っていくところです。そこで、洞察力うんぬんっていうのはさすがに少し違うのではないかと思います。
それは小・中でつけるべき力ですから。
確かに、そういった授業は学生に好まれますが、大学で行うべきものというのは、教授者の研究分野について深く語っておくことじゃないかな、と思います。
先生じゃないんですよ。大学は。それぞれの専門分野で活躍している教授なり、准教授なりが、自分の持っている知識を教授する場であると思うんです。
だからこそ、様々な講義が開講されていて、学生の好みで選べるようになっているのではないでしょうか。
「では教科書の・・・ページを開いて」なんて授業は、教授じゃなくって、非常勤講師にも、下手すれば事務の人にだってできるんです。塾で大学生が教えている訳ですからね。
あえて大学で学ぶ意義というのは、教授者の経験をダイレクトに学生が学べるからではないんですかね。
ですから、「その教授行為の一つ」として、仮説を立てさせる講義を行うのは意義があると思います。
ただ、「洞察力をつけたいから」という理由で行うのは大学である必要は無いと思います。

学校教育法における小学校の定義と大学の定義を見比べてください。

小学校の定義
小学校は、心身の発達に応じて、初等普通教育を施すことを目的とする。(第17条)
大学の定義
大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。(第52条)

初等普通教育を達成することとは、18条に規定されています。

第18条 小学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に勤めなければならない。

  • 学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と共同、自主及び自律の精神を養うこと。
  • 郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
  • 日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
  • 日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。
  • 日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
  • 日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。
  • 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。
  • 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。

Clear的には、ここに有ることは古いと思うので、学習指導要領からも引っ張ってきましょう。

学習指導要領 一章総則 第1 教育課程編成の一般方針 の1

各学校においては,法令及びこの章以下に示すところに従い,児童の人間として調和のとれた育成を目指し,地域や学校の実態及び児童の心身の発達段階や特性を十分考慮して,適切な教育課程を編成するものとする。

学校の教育活動を進めるに当たっては,各学校において,児童に生きる力をはぐくむことを目指し,創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で,自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに,基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り,個性を生かす教育の充実に努めなければならない。

ということで、小学校は生きる力をはぐぐむことを目指しています。

しかしながら、大学は違います。

我が国の教育制度では、小学校や中学校などの初等中等教育段階の学校については、学習指導要領によって教育課程編成の基準が定められていますが、高等教育段階の大学においては、それぞれの大学が、自ら掲げる教育理念・目的に基づき、自主的・自律的に編成することとされています。これは、大学の教育研究については本来大学の自主性が尊重されるべき事柄であること、また、大学には、社会との対話を通じて、弾力的かつ柔軟にカリキュラム編成し、またそれを不断に改善していくことが求められることなどによるものです。

文科省Webページ「Q1 大学のカリキュラムなどの教育内容はどのような考え方で決められるのですか。また、教育内容の改革として、具体的にどのような取組が進んでいるのですか。」より

大学では、社会に適応した柔軟なカリキュラムを組むようになっています。
これはすなわち、教授者が社会との関わりで得たことをどのように伝えていくべきかは教授者に委ねられているとも言えます。
そして、その教授者を選ぶ大学は、大学の基本理念と照らし合わせて教授者を選ぶことになります。

なので、前述のように、教授者が意図を持って洞察させる講義を構成することに関して、Clearは賛成します。
ただ、大学で洞察力をつけさせるために授業を行うのは違うのではないかと思います。

最後に、小学校での仮説実験授業の一例を挙げます。
Clearのうろ覚えなので、所々間違っているかも知れません。

実験内容:ばねののび方(理科)について
詳細:バネの両端に同じ重さのおもりがついています。その片方の先端を釘に変えてバネを固定した場合、バネののび方はどう変わるでしょうか。

┌------┐
□   □
  ↓
|------┐
    □

1.長くなる
2.短くなる
3.変わらない

どれだと思いますか?

3者の予想は分かれました。
特に、2と3で激論が交わされました。

2の意見
おもりの重さが半分になったんだから、半分くらい縮むはずだ

3の意見
どっちも同じ力で引っ張っているのだから、変わらないはずだ

3の意見は2の意見を持つ児童たちには受け入れられません。
知識を持っていないからでしょうか?
違います、知識の応用の仕方が分からないからです。

激論を交わすうちに、3の意見が変化します。
より2の人にもわかりやすいように。

釘を使っても、右と左の力を表す矢印(図示)の大きさは変わらない。
右のおもりを支えるために、左の釘も同じだけの力を出さないといけないので変わらない。

こうやって、知識の再構築が、正答を持つ人の間でも行われていきます。
皆さんも、最初、2だと思った方、いませんか?
おもりが半分になるのだから、2じゃない。と思った方、実はClearもそうでした。

よくよく考えると、右側のおもりと左側のおもりは最初釣り合っていた。
そして、左側を釘に変えても、右側のおもりと釣り合っている。
これは、左側も同じだけの力で引っ張っているから。
要するにおもりと同じ役割を果たしているから。

こういう流れで知識を構築すれば、難なく理解が可能でしょう。

洞察力というのは、結局の所、既知の知識をどのように使って理解するかであって、学ぶ人たちの既知の知識を教授者がきちんと理解し、なおかつその既知の知識を使いこなせていない事例を理解し、それをどのように再構築させるかについて、教授者がきちんとした知識を持ち、教材を選択しないと意味を成しません。
小学校の何気ない授業というのは、こういったきちんとした児童理解の元で成り立っています。
ただ単に授業を行っているのではありません。

これを、様々な知識を持つ大学生の間で行わせようとすると、無理じゃないかな、と思ってしまうわけです。
教授者がきちんと既知の知識を把握できるでしょうか。既知の知識を持つ人が、持たない人へとどのように教えていくのか、想定できますか?
そのような事が想定できないのであれば、行うべきではないと考えます。
ただし、自分の研究している分野ならば、できますよね?一般人に説明するとき、どのように自分自身が説明したかを考えればいいのですから。
学会ではどのように説明したのか。どういった質問が出たのか。これを覚えておけば、ある程度の授業の構築は可能ではないでしょうか。
知識を持つものと、持たざるもの。両者の知識の違いを明らかにして、その間を埋めるような仮説を立てて討議を行わせる授業ならば、
知識の応用力と、自身の研究紹介とできて、一石二鳥になるのではないでしょうかね。
逆に言うと、そこまでの知識を自身が持ち合わせていない場合はやるべきではないということです。

以上、長くなりましたが、小学校と大学でやることは分けて考えて欲しいな、同じ事をやるにしても意義は変えて欲しいな。
という、Clearの考えでした。

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